《むなしさ》を感じる自分に対してどのように対処すればよいのか悩んでいます

毎日の時間の流れに対して〈むなしさ〉を感じる私は、どのように対処すればよいのか

 

 

めくるめく情報が溢れる社会の中でwithコロナと位置付けられる日々を過ごす。

 

久々に人混みのあるところへ行ったときの酔った感覚のように、

誰かを失ったときに訪れる気持ちが悪い感覚のように、

ゆらゆら揺れる自分のこころや自分を見失うことがある。

ものすごく空虚感や〈むなしさ〉を感じることがある。

 

 

 

図書館で目を引かれた本。

『〈むなしさ〉の心理学』

 

今の私のこころには、この〈むなしさ〉という感覚がうごめいているということ。

だからこのタイトルの本に目を引かれたんだと思う。

 

 

 

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なぜ〈むなしさ〉を感じるのか

 

そもそも、どうして私たちは〈むなしさ〉を感じてしまうのか?

〈むなしさ〉を感じないようにできるのか?

 

 

どこかむなしい。つまらない

心の底から満たされる「何か」が足りない、という心のむなしさ。

時折おとずれるこの「心のつぶやき」を、私たちはふつう、何か良くないもののようにして、それから身を遠ざけようとする。

 

 

そう。

心の中の空虚感。

何か抜け落ちたような、満たされていないような感覚がある状態が続くことに対して、すごく不安を感じてしまう。

 

 

むなしさは、私たちの人生に何が欠けているかを告げ知らせてくれる貴重なメッセージだからである。

だから、私たちのむなしさからの出発は、自分の内側で口を開けているそのむなしさから目を逸らさずに、きちんとそれを見つめることから始めなくてはならない。

 

 

そうなんだ。

むなしさから目を逸らさず、きちんと見つめ、それと対話し、自分自身の感情として受け入れることがスタートなんだ!

 

けれども、どうして私はむなしいんだろう。

そして、むなしくなると無性に、自分が生きている意味について考えさせられる。

 

 

 

 「生きる意味」を問い求める時に、一番大切なこと。それは、自分のむなしさから目を逸らさずに、それをしっかりと見つめること。そして、あくまで自分自身の頭と心とからだで、「生きる意味」をどこまでも問い求めていくということ。

 このシンプルで厳しい道のりを、どこまでも歩んでいくことである。

 

 

 

むなしさを感じているとき、というのは、自分に対して、自分の人生に何か欠けていることを知らせてくれている無意識からのメッセージであり、そのメッセージを真に受け止め、「生きる意味」や「生かされている意味」について、自分が今、できることを考え、行動に移すことなのだろう。

 

「人に必要とされる喜び」「人の役にたてる喜び」がむなしさを癒す

 

 

 

さらにその行動に利他の心を添わすことにより、きっとむなしさが少しずつ癒され、より幸せに感じるようになるのだろう。

 

 

 

 

幸せとむなしさの深い関係

 

 

人は、むなしさを受け入れ、「生きる意味」を問い、人の役に立つ喜びを得ることではなして人は幸せになれるのだろうか?

 

 

 自分の幸福を望み、それを追い求める人間は、結局どこまで行っても、それを手に入れることはできない。果てしない欲望ゲームの虜となって、絶えず「むなしさ」や「満たされなさ」を抱えざるをえなくなる。「永遠の不満の状態」に置かれてしまう。

 人生のこの逆説的な真実。

 それを古来、哲学者たちは「幸福のパラドックス」と呼び、その罠に落ちることがないように戒めてきた。

 

 

幸福のパラドックス。

果てしない幸福を求める欲望のゲームに参加してしまうことで、満たされているのに、満たされないと感じたり、むなしさを感じてしまったり、幸せではないと思ってしまう罠に陥ってしまう。

 

はたして、幸せを追い求めることは本当に幸せになれないのだろうか?

 

 

 自分の幸福を追い求める人間は、結局どこまで行っても、それを手に入れることはできないという「幸福のパラドックス」。それは、古くから伝えられてきた「人生の智栄」なのである。

 

 フランクルは言う。

「幸福の追求は、幸福を妨げる」

「幸福を意識することによって、人は幸福になるための理由を見失い、幸福それ自体が消えていかなければならなくなる」

「私たちは幸福を獲得しようとすればするほど、それを獲得できなくなる」

 

 

 自分の幸福にこだわりを追い求めているうちは、人の心は決してほんとうに満たされることがない。幸福を追い求めても、それは必ず失敗に終わる、とフランクルは言う。

 では、どうすればいいか。

どうすることもできない。

ただ幸せになろう、幸福を手に入れようというこだわりを捨てて、なすべきことに取り組むがいい。そうしているうちに然るべき時が来れば、自ずと幸福は手に入るはずだ。これがフランクルの答えである。

 

 

幸せを手に入れようという『こだわり』を捨てる

 

 

こだわり・・・

 

 

こだわる人間はカッコよく見えると思っていた

こだわる人間になりたいと思っていた

 

でもそれは違う?!

 

幸せにこだわっている間は、その幸せに気が付かないということか。

幸せへのこだわりを捨てることで、自分の心にしたがってなすべきことをする。

なすべきことをすることで、自ずと幸せが手にはいるときが来るのか!

 

 

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「生きる意味」にこだわる必要はない?!

 

 

幸せのこだわりを捨てる…

 

私にとって、今まで持っていない新しい考え方を『生きる意味』にも当てはめられるのか?

 

 どんな時も、人生には意味がある。私を越えた「向こう」から、「なすべきこと」「満たすべき意味」が必ず与えられている。そしてそれは、この私によって、発見され実現されるのを待っている。

 

 だから人間は、「生きる意味は何か」と問い求める必要はない。「どう生きればよいのか」と思い悩むこともしなくていい。そんなことは、実は、最初から必要なかったのだ。

 

 問いに答えを与えて悩みを解決するのではない。

 問いそのものが消え去って悩む必要がなくなるのである。

 

 

幸せ の答えを探さず、幸せ へのこだわりを捨てる

そうすることで、自ずと 幸せ が手に入る

 

生きる意味 の答えを探さず、生きる意味 を問うことをやめる

そうすることで、自ずと 生きる意味 を悩む必要がなくなり、すでに与えられているであろう「なすべきこと」が得られる!!

 

 

フランクルは、自分の「幸福」や「自己実現」を求めるこのような姿勢、「自分中心の人生観」こそが、まさに「むなしさ」を生み出す元凶だと考える。

 

 

自分中心、ジコチューの人生観が私のむなしさを作り出している?!

 

自分の人生だからジコチューになってしまうのではないか?

 

自己実現がむなしさを作り出している?!

 

 

 

「私はこうしたい」「こうなりたい」という欲望や願望に先立って、私を越えた「向こう」から、「なすべきこと」「満たすべき意味」が与えられていると考える。その「なすべきこと」「満たすべき意味」を発見し実現することを、人間は人生から求められていると考えるのである。

 

 そのため、先の問いを逆さにして次のように問うていく。

すなわち、「あなたは何をしたいか」ではなく、

「あなたはこの人生で何を求められているか」

を問うていく。この人生で求められている「なすべきこと」「満たすべき意味」は何かと問うていくのである。

 

 

なるほど!

自分中心に人生を問うのではなく、人生を中心にして、人生に求められていることを自分に問うということか!!!

 

 

 

 さらに具体的に

「誰があなたを必要としているか」

「何があなたになされるのを待っているか」

「その何かや誰かのために、あなたにできることは何があるか」

と問うていく。

 

 

誰が…  家族が、困っている人が か?!

何が…  まだわからん!

その…  何ができるだろう?!

 

 

 これらは、「幸福」や「自己実現」を助ける問いではない。「意味発見」を助ける問いである。そこに据えられているのは、「自己」中心の人生観ではなく、「人生」中心、「意味」中心の人生観である。だからそれは、むなしさ克服の原理たりうるのである。

 

 

ジコチューな人生観ではなく、「人生」と「意味」中心の人生観こそ、むなしさの克服に必要であり、むなしさと共存できるということ。

 

 

 

不必要な「こだわり」を捨て、自分に「ゆるさ」「遊び心」を持つことで、自ずと自分自身の人生が自分になすべきことを教えてくれる

 

幸せ の答えを探さず、幸せ へのこだわりを捨てる

そうすることで、自ずと 幸せ が手に入る

 

生きる意味 の答えを探さず、生きる意味 を問うことをやめる

そうすることで、自ずと 生きる意味 を悩む必要がなくなり、すでに与えられているであろう「なすべきこと」が得られる

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

講談社現代新書「〈むなしさ〉の心理学」.諸富祥彦