人の営みの中で必ず向き合うことになる生と死。
そもそも自分もその対象であり、その営みである生を子へ授ける側でもある。
9月に無事出産をしました。
予定日の前日に助産院へ駆け込み、その4時間後には新しい家族として私たち家族の一員として産声をあげました。
3度目の出産でも、陣痛は耐えがたかったけど、それに耐える対価以上の喜びを感じられました。
次の出産はもうないだろうけど、女として生まれてきて良かったと思う瞬間。
この痛みと喜びは男の人には一生分からないだろうな。
産褥生活は通常通り6日間を産院で過ごし、その後は自宅で療養しました。
旦那さんが退院後の1週間は家にいてくれ、炊事洗濯となんでもこなしてくれたおかげで、寝たまま過ごすことができました。
その後は母に助けられながら、久々の赤子との生活を楽しんでいます。
楽しみすぎで、退院後から体重がなんと3キロも増えてしまった(涙)。
ずっとつわりで食事が制限されてたので反動ですね。それにしても3キロって増えすぎ。
育児に慣れてきた11月初旬。
ついに祖母が逝きました。
苦しい声一つ出さず、静かに。
まだ体が温かいうちに会ったことで、93年という祖母の長い生涯と、一瞬で訪れる死を肌を触れて感じる事ができました。
子供たちも少しずつ冷たくなっていく祖母と嘆き悲しむ私を見て、死というものを身近に感じたことと思います。
死を身近に感じ、今生かされている自分はどう生きたらよいのか、自問する私。
なぜ、生を受けたのか。
中学のころからの疑問がまたふとあたまによぎり、その答えをまだ出せていない自分を疑問に思う。
人には使命があるとか。
その使命が何かを知りたい。
死を迎える前に。
授乳に追われ、祖母の斎場へ行けなかったことで、未だに祖母の死を受け入れることができていないのかもしれない。
受け入れることはできていても、悲しみが足りないのかもしれない。
どこかで悲しさを感じてるが、その悲しさとは裏腹に、悲しさが足りないのではと薄情さを自分に感じる。